ただそこは空虚だった(1)

 自分の横でてきぱきと手際良く手を動かしている相棒のその様を見て、花村は彼のことを本当に男かとも疑ってしまった。今回、弁当を作るわけでも夕飯を作るわけでもない彼が料理に勤しんでいる理由はひとつ。自称特別操作隊の女性陣からのリベンジに受けて立つためだ。お題は「カレー」、いつか口に含み盛大に噴出してしまったあれをもう一度食べることになるのだろうかと、だとしたら我が相棒に全てを賭けるしかないと花村は内心怯えていた。そのためには、彼へのいかなる協力も惜しんだりはしない。
「あ、花村それとって。ほら、小皿」
「ああ、これか?」
 机に置いてある皿の中で一番小さいであろうそれを渡す。さんきゅ、と小さな微笑みで返されたと思えば、その無地で真っ白の皿に少しばかりとろ、としたカレーが盛り付けられた。それはよだれが出そうな程おいしそうで、漂う匂いを嗅ぐだけでどこか満たされた気分になった。彼はそれを味見できる程度に冷ますため二回ほど息を吹きかけたと思えば、僅かながらずずずと音を立て、飲んだ。皿にはまだ少しカレーが残っている。味を想像し、ごくりと生唾を飲み込んだ。
「花村、味見する?」
「え……あ、俺物欲しそうな顔してた?」
「してた。あと、客観的な感想も欲しいから飲めよ」
 その言葉に、俺の心が元気よく跳ねた。
「まぁじで!? じゃあお言葉に甘えて、ありがとな相棒!」
 予想外の展開に素でこれでもかという程喜んでから、皿に口をつけた。口内に流れてくるそのカレーの出来はたいしたもので、たちまち俺のテンションは最高潮に達する。
「うわ、うっめー! すっげー辛いのにすっげーおいしい!」
「ありがと。……そういえば、審査は誰がするって? まだ聞いてないんだけど」
「え、あ、あぁ、審査!?」
 花村は思わず声を裏返してしまった。審査員は女性陣が決めているのだが、花村には教えてくれなかった。「リーダーには知られちゃ駄目」という理由で。……里中いわく、彼は人の好みを的確に捕らえ、それに合った料理を作ることができるので勝ち目がないらしい。身勝手といえば身勝手なのだが、花村はもし自分がその立場に居ればそうしたくもなるだろうと納得していた。それを簡略に説明してみせると、彼は苦笑した。
「ははっ、俺、どこまで超人だよ」
 そんなにすごいことできない。そういって肩をすくめ、花村に笑いかける。その笑顔につられて、花村も笑う。そしてふと、疑問を持つ。
「なあ、なんでお前ってそんなに料理とか、家事とか得意なわけ?」
 その問い掛けに、彼は何故か一瞬肩を震わせた。顔は下を向いていて表情を確認することはできないが、彼が会話に沈黙を生み出したことから判る。
(もしかして地雷?)
 花村が憂慮をし、顔を覗きこもうとするが、彼はそれによって弾かれるように顔を上げた。
「あ……えっと、俺の親が仕事忙しくて……ほとんど一人暮らしみたいなもんだったから、自然に」
 いつもの声にいつもの口調。だが、声のトーンが若干落ちていた。
「ご、ごめん」
 気まずい雰囲気。咄嗟に口から出た謝罪の言葉に、彼は何事もなかったかのように振る舞った。
「もう昔のことだし、今は花村達もいるから気にしてない。だから謝るなよ」
 そう言ってはにかむ顔をぼうと見ていると、やはり彼はよくできた人間なのだなと感心する。
(流石俺達のリーダーだ)

『気にしてないって? ……へぇ』
 リーダーとされた少年は、背筋にぞくりと悪寒が走った事に気付いた。


 そして審査会場否堂島家。
「おま、審査って菜々子ちゃん!?」
 花村の驚愕と同時に、審査員を知らされていなかったリーダーさえも驚きを隠せないようであった。それも仕方ない、彼の作ったカレーは花村でさえ「すっげー辛い」ものだ。辛さを旨味として感じることのできるカレーとあっても、菜々子が食べるのであれば話は別。
「お? 二人ともそんな顔してどしたの」
「まさか先輩、勝つ自信なくなっちゃった? かっわいいんだぁ」
「一撃で仕留めるから」
「や、つうか菜々子ちゃんの年齢的に無理っていうか、天城その台詞怖い!」
 そのカレーを作った本人は、まさか菜々子が審査員だとは思いもよらず、大人向けの辛口カレーにしたことを深く後悔していた。これでは花村や菜々子の期待に沿えずして終わるかもしれない。
「どうしよ、カレー自体はヤベーくらい旨いのにな」
「菜々子にはちょっと無理か……」
 そんな事を話していると、菜々子は花村達の目を盗んでカレーを口へ運んだ。気付いたときには既に遅かった。
「あ、ちょ、菜々子ちゃん……!」
「――おいしい! 辛いのに、すっごくおいしいよ!」
 ……お世辞ではない、無垢な笑顔だった。その感想は何より嬉しかったようで、彼は楽しそうに目を細め、菜々子の頭を撫でた。
(よかった)
 料理対決は無論リーダーが勝利したが、里中たちは妙に納得していた。ここまで人を喜ばせることのできる料理などそうそう作ることができないからだ。そして、彼の作ったカレーがおいしいからとここには居ない捜査隊のメンバーにもご馳走することになった。

『独りは怖いよな?』
 皆を見送ったあと、少年の脳裏に響いたこの声の正体。








『思い出したな』
 液晶の向こうから語りかけてくるそれは。

 始まりはなんだっただろうか。確か、誰も帰ってくるはずのない家の居間で呆とついていないテレビを見ていただけだったのだと思う。見ていたというよりは、視界の端にただの背景として捉えていただけのようにも思える。そこで、その背景に変化が現れた。何も考えず視線を向けて、そこに――そのテレビに映ったものを見たことで、一気に頭が冴えたのだ。
『何も考えられない。それ、わかるぜ』
 そう言って吊り上げられた口角に、言葉を失った。
 それは、俺だったのだから。
『お察しの通り、俺はお前。さあ、俺が映った事でお前はどうなるだろうな』
「テレビに入れられる、って言いたいのか」
 だが、犯人である生田目はすでにどこかの病院に収容されていて、これ以上犯行を繰り返すなどできるはずがない。
『薄々は感づいているはずだろ? 一連の事件に矛盾する事柄があることを』
「詳しくは判らない」
『……判らない? 否定はしないんだな』
 ククッと喉を鳴らし、笑う様はきっと俺のものではない。
『お前が一向に気付かないから、話し掛けてやったんだけど――このままじゃお前、何も知らないまま落とされてただろうからさ』
 その言葉に、少し前から聞こえていた何者かの声を思い出した。
『思い出したな。実はお前、雨のあとの霧の日――映ってたんだぜ』
 マヨナカテレビ。
「そんな筈……」
『無いって言い切れないよな? 皆マヨナカテレビなんて雨の夜しか見ないんだし』
 思っていた事を言われ、恐怖に後ずさる。ここまで知った以上、そろそろ自分も落とされる可能性が高い。
『じゃあ、次はあっちで』
 怯える俺の姿を見咎めて嬉しそうに言い残し、テレビの映像はブツ、と途絶えた。再び何も映さなくなったテレビを目でとらえ、へたりと座り込む。その時だった。

――ピンポーン

 一気に鼓動が速まった。動くことが出来ず、ただ固まっていた。

――ピンポーン

「あれ、居ないのかなぁ……」
 玄関先から響く声に安堵で腰が抜けた。この声は足立さんだ。暫くぼうっとしていたが、はっと我に返る。早く出ないと。
「あ、だちさんっ……」
 大急ぎで戸を開け、安堵の声を漏らす。そこにはいつものへらへら笑う彼の姿があるだけで、それは何よりも自分を安心させてくれた。
「いやー夜遅くにごめんね? ちょっと君に聞きたいことがあってさぁ」
「堂島さんの事ですか? それとも」
 事件の事ですか――と言う前に意識を奪われ、目の前が白けていった。腹あたりに響く鈍痛も次第に薄れ、完全に気を失う。
「テレビに映ったら、落とさないとね」
 だらりとだれる体を支え、足立は口角を吊り上げる。


 気付けば、そこは黄一色の世界だった。ただ辛うじて視認できたのは、横たわる自分の下に広がる茶褐色の床。まだはっきりと目覚めていない頭を覚醒させるべく、手の指ですっと床をなぞってみれば、所々規則的で細く浅いみぞがあるようだ。
 重たい体を無理矢理起こせば、ぐらぐらとした眩暈を感じた。
(どこだ、ここ……)
 辺りを見回すも、漂う“霧”が深く見通す事は叶わなかった。そこで眼鏡というものを思い出した……が、いつも入れていたところにそれは無い。なぜなら、生田目を捕らえたことで既に事件は終わっているもので、もう眼鏡を持ち運ぶ必要などなくなったからだ。
 足音が聞こえた。こつ、こつ、こつと規則的に奏でられる振動が床についた手を僅かながら震わせた。音の響き方や音量の違いで判る。
(近付いてる、こっちに)
 咄嗟に立ち上がったが、相手はそれに気付いているのかいないのか、変わらぬ速さで悠長に足音を響かせている。
「誰だ」
 返事はない。
「っ誰だ!」
 頭の中からはいつものような「落ち着け」という選択肢など綺麗に抜け落ちてしまっていて、ただ先走る恐怖と焦燥に任せて叫んだ。
『怖い。俺はどうなるんだろう。今向かって来てるのは誰?』
 言葉が進むにつれ声のトーンが上がり、強調された。加えてその声がした方向に頭を向ける前に、視界を遮っていた黄色いものが退いた。黄一色でわからなかったが、これは霧やもやの類らしい。
 そして、自分の前に立っているのは紛れも無く己のシャドウだった。直感した。ここはテレビの中だ。
『まさか本当に落とされるなんて思ってなかったもんな』
 まるで花村と談笑をしているかのような軽い口調で語りかけてくる影に恐怖を覚えつつも、頭のどこかで皆こんな感覚でシャドウと対峙していたのだろうかなどと、冷えた目で状況を見渡している自分も居た。
『独りは嫌だ』
 びく、と肩が震えた。
『俺は、いらない子だった』
「や、やめ……」
 制止の声を無視し、影は言葉を続ける。
『親の顔なんて滅多に見たことない』
 自分の顔が恐怖で歪んでいるのが判る。やめてくれ、聞きたくないと必死に願っても、影は未だ何もなかったかのように淡々と話し続ける。
『帰りは遅くなる。今日は泊まり』
 “けど、あなたはえらいから大丈夫ね。”……後に続く言葉だ。自分の両親はどちらも働いていて、いつも帰りが遅い。それどころか泊まりがけで仕事をし、帰って来ない日さえあった。
『帰っても、誰も迎えてくれない。ただそこは空虚だった』
 そうだろ? とでも言いたげに笑い、首を少し傾けてみせるシャドウ。
『そして、今もまた。怖いよなぁ、独りは。まるであの時みた』
「言うな! それ以上、言うな……っ」
 自分の脳内はもはや昔の記憶という恐怖に支配されていて、平静さを保つことなど、心の内から湧き出る感情に抗うことなどできるはずもなかった。ただ、何の躊躇いもなく絶望の言葉を紡ぐそれに黙ってほしくて、とにかく必死に言葉を遮った。
『何言ってるんだよ。俺はお前、お前は俺だろ? 俺はお前の気持ちを代弁してやってるだけさ』
「ち、違う……」
 続きを言う前にはっと我に帰った。今ここで影を否定してしまったら? 俺は影に殺される? そんな恐ろしいことを考えてしまって、ごくりと唾を飲み込んだ。
『まあ、死ぬのだって怖いもんな。お前は表面じゃ余裕顔でも、中身は超ビビリだし』
「……判ったようなことを!」
『判ってるさ。全部、手にとるようにな』
 ぎゅ、と俺のまえに差し出した拳をにぎりしめた影は、顔を狂気に歪ませ笑っていた。すべて見透かされているというのは、とてつもなく不安になるものだと知る。
『お前が今まで恐怖を覚えたもの、全部言えるぜ』
 誰もいない家。転校。菜々子の死。シャドウ。稲羽市を出る春。皆に忘れられること。影はご丁寧に指折り数えてまで挙げている。
「も、いい……やめて、くれ……」
 今にも崩れ落ちそうなか細い震えた声で訴えると、影は満足したのか指折りを止めた。
『嫌なもんからは逃げ出して、いつも保身で。ふざけんな』

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